○寿都天狗岳へ
 
 観音山で10分ほど休み、8:10、寿都天狗岳到着11時の予定で出発。659ポコを越え、このルートの最低コルである621へ下る。


 コル付近で、尾根を越えて東側へ下っている新しい熊の足跡が続いていた。ストックのリングの大きさと比べても結構大きな個体のようだ(1)この後、こちらの進む尾根や稜線に絡んで、ずっと続いていた。
コルから 帰りにシールを外すと滑りを楽しめそうなオープン斜面を登り、黒松内三山の675峰から続く尾根に乗る。振り返ると先ほどまでいた観音山が見える。約1時間なのに、すごく遠く感じる(2)


 これから向かう金ヶ沢川の源流部を回る黒松内町と蘭越町の境界稜線を眺める。手前の3つのピーク越えが辛そうだ(3)このときはまだ、寿都天狗岳を黒い岩肌を見せるピークだと思い込んでいた。

 
 
 標高点794の左側を巻いて下り、手前に見えていたピークを越える。右手にニセコ連峰と羊蹄山が見える(4)次の889ピークは、登らないで急な東斜面をトラバースして巻いた。
 

 いよいよこの山塊の最高地点910への登りだが、そのコルからこれから進む稜線を眺め、地図と照合して、初めて目指す寿都天狗岳は岩崖のピークではなく、その一番奥のピークであることに気づき、愕然とするが、まだ9:50だったので、新たなファイトが湧く(5)

 910の手前の急なピークに下ってきている熊の足跡が続いていた。最後が狭くてかなり急だ。スキーで登って登れないことはないが、ジグを切って登るのも大儀なことと、ここを登り切れば寿都天狗岳までは、アップダウンが少ないので、ここでスキーをデポしてかんじき履き替えることにした(6)


 10:10、観音山から2時間で、この山塊の最高点910に到着。立木にピンクテープがぶら下がっていた(7)ここは主峰・幌別岳より高い最高点で、蘭越町・黒松内町。寿都町の3町の境界点でもあるのに、山名もなければ標高点すらない不遇のピークである。しかも、ずっと寿都天狗岳と勘違いしてきた岩崖がむき出しになっているピークの方がもっと高い。これも地図には表記されていない。

 右手から合流する尾根の途中に、この山塊の主峰である一等三角点の幌別岳とその向こうにニセコ連峰が見えていた。この幌別岳は03年に刈り払い道を利用して踏破済みである(8)
 その幌別岳を寿都天狗岳方向から往復したと思われる古いスキーのトレースがあった。

 ここから寿都天狗岳まで距離を測ったら、1.7kmほどだった。かんじきでもそれほど埋まらないので、サクサク歩けるので、予定の11:00までには着けるだろうと確信した。スキーのトレースを辿り、尖った岩崖のピークを眺めながらその根元を通過。


 892ポコまで来ると、目指すちょっと尖った寿都天狗岳は手中に入った感じだ(9)
 10:50、スタートから予定より少し早い4時間50分で、寿都天狗岳へ到着。不思議に疲れた感じは全くなかった。早速寿都湾をバックに記念撮影(10)


 眼下に広がる寿都湾を見下ろしながら腹ごしらえして10分ほど休憩(11)

○はるか遠い観音山を目指して復路に就く


 いよいよ下山開始・・・とは言っても、これから戻る稜線のはるかかなたに見える観音山まではアップダウンを繰り返す復路で、下山という感じではない(12)

 最高地点を越えて、スキーのデポ地点まで戻る。その先の東斜面を横切った889ピークの先にも越えなくてはならないピークが見える(13)

 スキーに履き替えて、889ピークをトラバースしている最中に、両方の腿の内側が筋痙攣を起こし、激痛に襲われた。歩いている最中には初めての経験だが、あまりの激痛に動けなくなり、歩けなくなったらどうしようと不安になるくらいだった。延ばしたり、休んだりしながら、だましだまし歩いているうちに痛みはなくなった。何度か一緒に登っている人が、足が攣ったことがあるが、このような感じなのだろうか?

 下りは、シールを剥がせば滑りを楽しめそうな斜面もあったが、面倒なので、そのまま下った。観音山へは往きより20分早い3時間30分で到着。

 観音山でようやくシールを外す。腐れ雪なので、快適なターンは楽しめなかったし、慎重に下ったにもかかわらず、スキーの利点を生かし、登りの1/4の30分でゴールすることができた。

 GPSによると移動距離は19.5kmだった。久しぶりの8時間30分のロング山行に大満足のゴールだった。

 この後、観音山の由来とされている観音寺とそのすぐそばから観音山をカメラに収め、寿都のゆべつの湯へ向かった。






観音山の由来になっている?黒松内最古の観音寺(地図がガイドの山歩き」のサイトからコピペ)
 
 道道9号線を黒松内から寿都方面へ移動する途中、左側の車窓に丸山が見える辺りで右側に観音寺という黒松内最古の寺が見えてくる。一見、寺とは思えぬ感じであるが、創建が安政6年というから、北海道内にあってもその歴史はかなり古い方にランキングされる。榎本武揚や北垣国道(明治時代の政治家、男爵、琵琶湖の疎水で有名)といった日本史に名を連ねる錚々たる人物も黒松内山道通行の折に参詣したそうで、そのときの署名版は現在も残されているとのこと。その後、位置が変わり建てかえられて現在の建物となる。戦後の昭和20〜30年代、観音寺のお祭りには多くの人たちが集まり、縁日も行われていたようで、地区の信仰の中心となって賑わった時代もあったようだ。付近はこの寺に因んで観音岱と呼ばれている。おそらく、観音山の名も、この寺に因んだものであろう。




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