硫黄山(4301m)
磯谷川林道 単独 つぼ足 16,3,13
5:40 自宅発
登山 | 地点 | 下山 |
7:00
7:40
8:35
9:00 |
林道入口
旧林道分岐
鉱山遺構
頂 上 |
10:50
10:30
9:30
9:10 |
[2:00] | 「所要時間」 | [1:40] |
11:40 大船温泉 ひろめ荘(入浴)
13:30 帰宅
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国土地理院の地形図に載っている函館市内の山で、唯一登り残していた(というよりは見落としていた)山があった。それは、旧南茅部町の磯谷川の上流にある硫黄山(430m)だ。三角点があるわけでもなく、この山のすぐ下に明治37年から昭和28年まで、硫黄を採掘していた熊泊鉱山があったことが山名の由来のようだ。地図で見ても、実際に登っても、泣面山と熊泊山に挟まれた、磯谷川の谷間にある小山だった。
今回は、単なるピークハントだけでなく、ひょっとしたら、熊泊鉱山の遺構も目にできるかもしれないという期待も込めてトライした。ネット上では、この山に登ったという記録も遺構の画像も見当たらない。
硫黄山のすぐ下まで昔の鉱山の道路跡が地図に載っている。しかし、木や笹で覆われて、あちこち崩壊しているらしいとの情報を得ていたので、積雪期に狙っていた。今年の1月下旬にSHOさんと二人で狙ったが、天候が悪くて諦めていた。
磯谷第二発電所までは除雪されている。
その道路が発電所へ向かって下り始めるところに林道入口がある(1)。今回は、一人で出かけた。スキーも用意していったが、堅雪なので、かんじきを持参し、スパイク長靴でスタート。結局、かんじきは使うことがなかった。
スノーモービルのトレースが続きている現在も使われている林道を30分ほど進むと、分岐がある。スノーモービルのトレースにつられて左に入ったら、磯谷川から離れて行く。GPSで確認すると、別な林道だった。戻ったら、右に続く古い林道があった(2)。少し進むと磯谷川の谷間の向こうに噴火湾が見えた(3)。
案の定、情報通り、道路だったところは幼木や灌木で覆われている。もう何年も林道としては使われていないようだ(4)。
沢を横切る所はほとんど崩壊していたし、崖崩れしているところもあり、滑落したら谷底まで落ちてしまいそうなところもあった。左手には泣面山、右手には磯谷川を挟んで熊泊山を眺めながら
幼木や灌木を掻い潜って黙々と歩く。
目指す硫黄山まで直線距離であと500mくらいの山中に、忽然と熊泊鉱山の大きな遺構が現れた(5)。帰路にゆっくり見ることにして、硫黄山を目指す。
その遺構を過ぎたら、急に硫黄の臭いがして来た。まもなく川が現れた。臭いの元はそこだった。水面に手を付けてみたら冷たくないので、温泉が混じっているようだ。
その先の橋を渡ったら、すぐ上の谷間の地中から、その川の源流が噴き出すように湧き出ていた(6)。
地図上の林道終点まで行くと、ようやく目指す硫黄山が見えた(7)。
林道を離れて、方向を北に変え山頂を目指す。わずか10分ほどの登山気分で、山頂に到着。物好きは自分でないらしい。2本の木に古いピンクテープが無済まれていた。
まずは、泣面山をバックに自撮りの記念撮影(8)。北西には、磯谷川を挟んで聳える熊泊山(9)。ほかには展望もなく、雪もちらついてきたので、10分ほどで下山開始。
登りで目にした遺構を反対側から回り込み、上の部分をじっくりと見る。レンガ積みの部分も見られる(10)。そのレンガ積みの中を覗いたら、縦横50〜60cmほどのトンネル状になっていた。しかし、人が通るには狭すぎる(11)
そのすぐ下の林道からは、先ほど登った硫黄山が良く見えた12)。生活の場だったであろう平坦地はトドマツが植えられてその痕跡は見られない。しかし、この山は、この場で暮らす人にとっては生活に密着した大切な山だったのだろう。
その下の林道でも、ほかの遺構がないかキョロキョロしながらあるいた。
右手の斜面に四角いコンクリート製のものが見えたので、登って近づいてみた。それは、明らかに取水槽だった。下を流れる川は硫黄を含んでいるので飲み水には適さないので、多分ここで生活用水を取っていたのだろう(13)。
さらに、すぐ下の林道のそばに、屋根の付いた四角い貯水槽のようなものと、何段かに整地された遺構も見つかった(14)。
下のスノーモービルのトレースのある林道は、くねくねしているので、ショートカットしながら下った。スタートから3時間50分でゴール。歩いた距離は往復で10kmくらいのものだった。
下の磯谷温泉の跡地と磯谷発電所を見て、帰路に就いた。
大船遺跡の入口の大船寺で、1925年(大正14年)建立の「熊泊鉱山 先亡諸精霊塔」を見る。 明治42年の大雪のため崩壊事故で亡くなった31名の死者もここに祀られている(15)。そして、大船温泉ひろめ荘へ。
○熊泊鉱山の歴史について(南茅部町史から抜粋)
1903年(明治36年)磯谷川の上流、熊泊山の東山麓に硫黄鉱が発見された。
1904年(明治37年)から硫黄に採掘のため操業、その5年後に大雪のため崩壊事故が起きて31名の死者が出た。1916年には硫黄の産出は日本1位となっている。
函館港まで運び、アメリカやオーストラリア、ロシアにまで輸出する重要な輸出品となっている。
函館港への運搬は、馬車ではなく磯谷川の右岸に積み出し桟橋が出来て、3000トン〜4000トンの汽船が停泊出来るようになり、船で運ばれた。そして、函館港から世界の港へと輸出されていった。
操業は、1953年(昭和28年)まで、50年間も続けられたが需要がなく、閉山。最盛期は小学校まであった。
なお、南茅部町史ではなく、自分が大船に住んでいたときに、泣面山麓の昔の万畳敷開拓部落へ通じる道がこの鉱山から急な尾根に続いている古地図を目にしたことがある。万畳敷開拓部落の人はその道を往来したと聞いている。
この鉱山については、
函館市史にも触れられている。