◎「大野平野を行く道」
  (北斗市総合分庁舎〜八郎沼〜匠の森〜渡島大野駅)(14.5km) 
  
  このコースは、「平野を行く」となっているが、平野部分はごくわずかで、八郎沼経由で匠の森まではほとんどハイキングのようなハードなコースだった。

 分庁舎前の一角にベンチがあったので、そこで休憩した。そばに、「野本医院跡」の説明板が建っていた(1) 子供のころにいつもお世話になっていた病院だった。当時はいつも往診で、やさしい先生だった。

 11:10、第2弾のスタート。すぐそばのスーパーでスポドリとトマトを購入。その隣が、子どものころ8月末のお祭りの思い出が強い意冨比神社(おうひじんじゃ)(2)
 子供のころは知らなかったが、この神社は、箱館戦争の際、今の峠下から五稜郭へ向かおうとする榎本軍大鳥圭介部隊と、阻もうとする官軍藩兵とが、旧大野町市渡で遭遇戦となり、この意富比神社境内を中心に戦闘になりました。この間大鳥部隊の放った大砲の弾が、今の十字街や下町あたりの家にあたって燃え上がり、強い北風にあおられて十数軒が焼失したそうです。村民は銃声や火災に逃げ惑ったそうです。この神社のイチイの木に、そのときの弾痕があるそうです。このイチイの木は推定樹齢360余年で、北海道の記念保護樹木となっています。
旧大野町には江戸時代初期の頃から人々が住み始め、1669年頃家が20軒ほどあり、この木はその頃植えられたものだそうです。


 子どもの頃通った大野小学校と旧大野中学校(現在は体育館と公民館)の前を通って、本郷地区を進む。
 4歳〜9歳まで住んでいた2軒隣の大郷寺の推定樹齢200年ほどのイチョウの大木。銀杏の実を毎年拾ったものだ。強烈な臭いと手がかぶれたことを思い出した。(3)
 さらに5分ほどで鹿島神社。ここが大野小学校と市渡小学校の校区の境界だった(4)今回初めて知ったのだが、明治期に本郷小学校がこの場所に合ったらしい。
 さらに10分ほど進み、大野川の方へ左折する(5)


鹿島橋を渡り、大野農業高校の裏側の道を通ったら、これも初めて目にし、明治初期に開拓使によって開かれた「大野養蚕場」があったという歴史も初めて知った(6)
そこから、観音山の北側の登り道となり、八郎沼公園へ向かう。


 登りきった右側に駐車場があり、そこに、「八郎沼」の歴史が書かれた標識が建っていた(7)
 そこから湖畔の道へ下って、公園へ向かった。赤い橋の両側には赤、ピンク、白のヒツジグサが咲いていた(8)
 子どもが釣っていたものを見たら、フナではなくアメリカザリガニだったことに驚いた。誰かが放して繁殖したのであろう。


ちょうどタイミング良くお昼になったので、八郎沼公園に隣接している谷観光農園で(9)、夏野菜カレー(850円)を食べた。メロンはおまけだった(10)


 さらにパークゴルフ場や変電所の横の道を通り、大野川に架かる「大野大橋」を渡って、木地挽高原への道へ進む(11)
 標高240mにある「匠の森公園」入口まはでは、ずっと登りでなので、走ることはできなかった(12)
 しかし、その入口からは、ゴールの渡島大野駅までは、ほとんど下りと平地の5.1kmである。走ると14:20の列車に間に合いそうなので、ほとんど走り続けた。


  「匠の森研修所」の前を抜けたら(13)、ゴールまで3.8kmの標識(14)列車の時刻まで1時間あるので、歩いても間に合いそうだが、下り道なので快調に走り続けた。


 国道227号線との交差点にある標識と市渡稲荷神社の鳥居。実は、昨年の秋に偶然この標識を目にして、北海道自然歩道の存在に気付いたのだった(15)
 ゴール地点となる渡島大野駅は、すでに新函館北斗駅の中に組み込まれていた(16)


 13:55、余裕で渡島大野駅連絡通路入口に到着。隣に新函館北斗駅の表示板も設置されていた(17)
 快適な連絡通路の階段を登り、在来線のホームへと渡る(18)
 汗でぬれたTシャツを着替えて、きれいになった在来線のホームへ入ってきた14:20発の1両編成の列車に乗る(18)
 15:05に五稜郭駅に到着し、徒歩5分で無事帰宅。すぐに入った風呂上がりのビールが美味かった!

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