北海道自然歩道 C1松前街道
 「A北海道水田発祥地帯を行く道(15.6km)」「@大野平野を行く道(14.5km)

15,8、19 単独 (清川口駅〜渡島大野駅)

7:25 自宅発 
7:49 五稜郭駅発(JR)
登山
地点
 8:10
 9:05
 9:50
11:00
清川口駅
松前藩戸切地陣屋跡
北海道水田発祥の地
北斗市総合分庁舎
11:10
12:00
12:10
13:20
13:55
北斗市総合分庁舎
八郎沼公園
谷観光農園(昼食)
匠の森
渡島大野駅
[5:45]総所要時間

14:20 渡島大野駅発(JR)
15:00 帰宅
 「北海道自然歩道」は、2003年に計画が決定し、現在整備中だが、整備済みはまだまだごく一部である。 計画路線の延長距離は4,585kmで全国最長。天然林主体の広大な森林や湿原といった豊かな自然景観、広大な牧場や畑、防風林といった牧歌的な田園風景など北海道を代表する地域の歴史的・文化的資源等を結ぶ歩道のネットワークを構築するものとなっており、整備が完了すれば、全国の長距離自然歩道の総延長距離は約2万6千kmに及ぶこととなるそうだ。

  函館近郊では、現在は、函館〜長万部を結ぶ「維新の道」の中の、昨年歩いた「赤松並木を歩く道」(桔梗駅〜渡島大野駅)<11.9km>と「駒ヶ岳山麓を辿る道」(七飯町大沼〜森町駒ヶ岳)<13.3km>の2コースが整備済みいうことが分かった。さらに、「松前街道」の中の「大野平野を行く道」(渡島大野駅〜北斗市分庁舎)<14.5km>と「北海道水田発祥地帯を行く道」(北斗市分庁舎〜清川口駅)<15.6km>が整備済みである。

 そこで、今回は、「北海道水田発祥地帯を行く道」(清川口駅〜北斗市分庁舎)<15.6km>と「大野平野を行く道」(北斗市分庁舎〜渡島大野駅)<14.5km>を1日で繋いで歩いてみた(1)

 「北海道自然歩道」に記されている2つのコースの距離はこれよりかなり短い。ここに記載している距離は、設置されている標識の説明板に記載されている距離である。しかし、GPSウウォッチでは、ちょと余計に歩いてはいるが、トータルで4kmほど長い35kmもあった。歩数計で約42,000歩。半分ほどはマラニックモードで、ゆっくりながらも走ったので、所要時間は5時間45分だった。ちなみに、説明板の所要時間は10時間だった。

 ほとんどは車で通ったことのある道だったが、分岐には、必ず距離と方向を示す標識が設置されていて、迷うことはほとんどない。さらに、歩きならではの発見もあり、いろいろな歴史的な説明板もゆっくり読みながら歩くことができた。

◎まずは、「北海道水田発祥地帯を行く道」
(清川口駅〜戸切地陣屋跡〜水田発祥の地碑〜文月開拓〜北斗市総合分庁舎(旧大野役場)(15.6km) 

 五稜郭駅7:46発のJRに乗り、8:04清川口駅到着。 上磯高校の生徒と一緒に下車(2)。踏切を渡ったところに、スタート地点の標識があった(3)
そこには、このコースの特色と今日1日で歩くつもりのコース図も記載されていた。
8:10、女子高校生にシャッターをお願いして、写真を撮り、スタート。

 すぐ隣の北斗市総合文化センター・かなで〜るの前を通り、左折して桜並木の続く「峠下上磯線」をゆっくり走りながら進む。


 何度か車で通ってはいるが、農村には珍しい上磯ハリスト正教会には初めて気がついた(4)
 説明板によると、明治9年(1870年)、函館教会の信徒・キリール大村徳松によって設立され。伝道者ダミアン五十嵐東三師と伝道を開始し、3名が受洗して小さな正教の灯がともされました。明治17年には総檜造りで畳敷きの教会が建設され「有川昇天会」と称されました。昭和5年(1930年)に「有川昇天会」から「上磯ハリストス正教会」と称されるようになりました。現在の建物は、昭和62年に建設された。この宗教の発祥は日本で最も古いとされているギリシャ聖教ハリストス正教会に属し北方ロシア文化の伝統を日本に広めたものです・・・と書かれている。。

 高速道路と新幹線の高架の下を潜り、清川地区の「峠下上磯線」を北上する。やがて、「松前藩戸切地神社跡」への分岐に到着(5)
 清川寺の下を登り、春には桜の名所となるサクラ並木の直線道路を進む(6)


松前藩戸切地陣屋跡入口に到着(7)。中の様子も眺める(8)
 ここは、箱館港の開港にともない幕府は蝦夷地の防衛を強化するために松前藩に陣屋を構築させた。 明治元年(1868)の箱館戦争で幕府脱走軍の進撃にともなって、守護隊の手によって自焼・放棄され、現在は国指定文化財として管理されている。

  再び戻って、「峠下上磯線」を少し戻り、沖川小学校の裏側の道へ入る(9)この部分は、初めて通る狭い道なので、間違って戻ったりした。
  やがて、これも初めて目にする真新しい感じの清川稲荷神社の前を通る(10)
  分岐には必ず標識が設置されていて、両側からの進路と距離が書かれているので、とても分かりやすい(11)


 まもなく、水田の中に続く、車で通ったことのある広い道路に出た。「北海道水田発祥の地」へ続く道だ(12)
 米どころの空知のフットパスで、市町ごとに必ず目にしたライスセンターが、ここにもあった(13)


 のんびり走ったり歩いたりしながら、水田の中の車道を進む(14)。 やがて、このコースのメイン経由地の「北海道水田発祥の地碑」に到着(15)
(説明板) 北海道水田発祥の地碑
 蝦夷地の米作りには,寛文年間(1661〜72)貞享 二年(1685),元禄五年(1692)の記録がある。水 田発祥の地碑は,元禄五年の「松島志」の記録と村民の伝承 によって昭和二十四年(1949)に建てられた。
 碑文には「押上(文月村)のこの地に元禄五年農民作右衛 門なる者南部の野田村から移って,人々の定着は米にあると してこの地を拓し,四百五十坪(約15アール)を開田し, 道米十俵(現在の二俵程度)を収穫した」と記されている。 現在の道産米の基礎はこうして発祥した。
 作右衛門の水田は二,三年で廃止され,その後も稲作は失 敗と成功を繰り返し,文化二年(1805)には箱館奉行が 大規模な水田開発を行ったが,長くは続かなかった。
 嘉永三年(1850),大野村の高田松五郎・万次郎親子 が苦心の末,米の収穫に成功すると,近隣の村々にも広がり, 安政元年(1854)以降,米作りはようやく安定した。明 治六年(1873)になって,島松(現北広島市)の中山久 蔵がこの地の品種「赤毛」で寒冷地稲作に成功し,米造りは 全道各地に広がったのである。


 「峠下上磯線」を横切り、小学生のころ良く遊びに来た旧大野小学校文月分校跡地や文月神社に寄る(16)。そばの標識には、この文月地区の歴史が書かれていた(17)
 そこから、昔の面影のなくなった文月開拓へと登って行く。このコース最高地点となる標高120m付近の八郎沼分岐を右に進路を取り、平野部へと下って行く。


 途中の懐かしい観音山入口(18)観音山を左手に見ながら、下り道を走る(19) この観音山の斜面には、子供のころ借りた我が家の畑もあり、冬はスキーで遊んだ懐かしい場所だ。
 やがて、大野農業高校の前を通過(20) 大野川を渡り、市街地へと進む。


11:00、2つのコースの接続地点で、それぞれの発着地点にもなっている北斗市総合分庁舎(旧大野町役場)に到着(21)
そばには2つのコースの詳しい説明板が設置されていた(22)
つづく
「大野平野を行く道」 (北斗市総合分庁舎〜八郎沼〜匠の森〜渡島大野駅)(14.5km) 


 

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