台場山(485m) <函館市/南茅部町>  旧川汲山道・NTT管理道路コース  単独 03,9,15

台風一過の秋晴れの下、旧川汲山道のNTT管理道路から、維新時、新撰組副長・土方歳三率いる幕軍も歩いた官軍との古戦場でもある史跡の山に16年振りに立つ。

8:20 自宅発
8:50 NTT管理道路ゲート前
登山地点下山
 9:00
10:03
10:08
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10:22
10:32
ゲート前
川汲峠
尾根取付地点
(通り過ぎて戻る)
尾根取付地点
頂 上
11:50
11:00
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10:57
10:50
[1:32]所要時間[1:00]
12:30 帰宅

 この山は、函館市と南茅部町の境界線上にある山で、昔の川汲山道の川汲峠の頂上から稜線沿いに500mほど北側に位置し、明治維新時の箱館戦争の古戦場としても有名な山である。1868年(明治元年)10月末、森町の鷲の木に上陸した旧幕府榎本軍の新選組副長・土方歳三率いる支隊400人余は、砂原、鹿部の海岸道を進軍して川汲に至る。東蝦夷地三険の一といわれた川汲峠で、官兵に土方支援の小隊で夜襲をかけ、山頂を占拠。翌朝、川汲湯元宿陣の土方軍の主力が、鱒川峠から上湯川を経て五稜郭に入った・・・という歴史的由緒のある山である。

 なお、この山名の由来は、その後、榎本軍が、官軍の反攻に備えて要所に台場や陣地を構築。明治2年、川汲峠の山頂(カックミ山、毛無山、木無山とも呼んだ)に、砲台場を造ったことに因る。この山は矢別ダムから北側を望むと、稜線上のNTT無線中継所の左隣に見える山である(1)。

 この山には、南茅部町の住んでいた16年前に町民登山会で登ったことがある。そのときは、今回利用した川汲トンネルの函館寄りの今はNTTで管理している旧川汲山道入り口から登り、頂上を経て、旧川汲山道を通り川汲公園へ下りたが、今はその下山に使ったコースは崩壊したり、荒れたりして通行禁止になり、廃道と化している。そのせいか『夏山ガイド(No5)』の改訂版から削除されてしまったのは残念である。しかし、今回利用したNTTの管理道路を利用しての登山は可能であるので、今回再訪し、このHPに掲載することにした。

 台風一過の秋晴れのもと、最近は沢登りや藪漕ぎのハードな山ばかりやってきたので、たまにのんびり・ぶらぶら歩きの山もいいだろうと、自宅を出発する。道道83号・函館南茅部線の川汲トンネルの函館側の入り口1kmほど手前右側にその登山口となるゲートがある(2)。ここは、川汲トンネルが開通する昭和40年代まではバスも通っていた道である。

 ゲート前に車を置いて出発する。川汲峠付近に設置されている無線中継所まではNTTが管理する道路で、4.229mあるらしく、200mごとに標識が付いているのがうれしい。舗装道路ではあるが、路面には苔や草が生えていて、峠までは上空がブナやミズナラの枝で覆われたトンネル状のひんやりしたと涼しい静かな道である。

 道はまずは沢沿いに北上し、5分ほどで沢を渡り、今度は南下し、道道83号線を眼下に見ながら登っていく(3)。やがて次の沢沿いの斜面を北上して峠をめざす。道の上には2日前の台風で吹き飛ばされた木の枝や枯れ葉やドングリ、コクワの実、ブナの実、トチの実などがあちこちに落ちているし、道ばたにはエゾノホソバトリカブトのほか結構秋の花が咲いている。

 途中に誰がなんのために設置したのか分からない「この道は 夫婦が語る 愛の道」と書かれた古い看板も立っている。川汲峠が近くなると樹間からNTT無線中継所が覗く(4)。登り初めて1時間ほどの距離標識の3800m地点を過ぎると分岐に出会う。ここが川汲峠である(5)。舗装されていない右側へ下ると、川汲公園経由で下りる旧山道であるが、ちょっと下ってみたがほとんど人の歩いた痕跡もなくなり藪道と化している。その左側に未舗装の林道が続いている。

 この林道を5分ほど辿ると、右側に「川汲旧山道古峠」「台場山砲台跡入口まで二百米→」と書かれた白い標注が2本立っている(6)。「ここが古峠のはずがない、下の川汲峠に立っているのなら分かるが・・・?」と疑問を感じる。しかも、「入口まで二百米→」の矢印が林道をさらに200m進んだところにあるかのように記されているので、そのまま林道をその「入口」なるものを探しながら、奥に400mほど進んでしまう。どうもめざす台場山から離れて行くのである。おかしいと思い戻ることにする。

 戻って、白い2本の標柱の左側によく見ると上に続く踏み跡が見える。どうも同じような間違いをする人がいるようで、矢印の向きを斜め上に向けて標柱を削った痕跡がある。推測するに、どうやらこの2本の標柱は川汲峠の部分に設置するつもりで作成し、設置する人が間違ってこの取り付き地点に立てたものと思われる。そう考えると「古峠」の意味も、そこが入口そのものなのに「入口まで二百米→」の意味も理解ができる。どうも人騒がせな標柱である。

 その踏み跡は林の中の笹藪に続いているが、あまり人が入らないようで、すっきりとしたものではない。せっかくの史跡なのだからきちんと整備しないと、ここも分からなくなりそうな感じである。そんなことを考えながら10分ほどの急登で、明らかに砲台として整地されたような形の頂上が見える。

 頂上には南茅部の最高峰・泣面山をバックにした頂上標識(7)のほかに、二面に「台場山砲台跡」「明治二年四月、土方隊青銅製大砲四門台座築造」と書かれた白い標柱が立っている。その先に函館山や遠く大千軒岳が見える(9)。また、ここには土方歳三を慕った京都維新之会新選組(女性のみの組織)によって、記念柱が建てられていると何かで読んだことがあるが、それらしいものは見当たらなかった。

 そのほかの眺望であるが、恵山は古部丸山の陰で、横津岳は袴越岳の陰で、駒ヶ岳と羊蹄山は泣面山の陰で見えないのは残念であるが、太平洋の向こうに樽前山や恵庭岳が見えるのは斬新な眺めである。また、函館山のずっと左手前には矢別ダムの湖面が光り、直ぐ下の川汲峠付近にはNTT無線中継所と崖崩れで崩壊している南茅部側の旧山道が見える。

 20分ほどくつろぎ、下山を開始する。ちょうど1時間でゲート到着である。帰りは川汲温泉にでもと思ったが、それほど汗も掻かなかったしまだ昼前なので、そのまま帰路に就くことにする。

<途中で拾った光景>

エゾノホソバトリカブト

なぜ、だれが立てたのか?

 トカゲの仲間

<道に落ちていた木の実>

ドングリとブナの実

トチの実

コクワの実



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