○沼見峠から整備中の猿留山道を通り、登山口へ(沼見峠以南の猿留山道)
下山
地点
11:30
12:35
13:15
14:15
沼見峠
ガロウ川渡渉
山道部分終点
登山口
[2:45]所要時間

 沼見峠には、石碑と石の祠が建立されている。左は妙見様(安政6年/1859年)で、右は馬頭観世音菩薩(文久元年/1861年)である。郷土博物館のNaさんからいただいた『えりも町ふるさと再発見シリーズ3・猿留山道』によると、ともに、場所請負人福島屋嘉七の建立とのことである(1)680m地点の奥山半僧坊のレリーフといい、この石碑といい、ともにここを往来していた当時の人々の願いを知る貴重な史跡である。
 
ここからが、山裾沿いを通り、牧場の上の361m地点の林道へ繋がるというの猿留山道の歩きである。沼見峠を挟むように南側の斜面にはっきりとした道が認められる(2)反対側の北斜面にも同じような道が続いている。こちらは明日反対側から歩く予定である。

 昨年にでも刈り払いがなされたらしく快適に歩くことができる(3,4)沢地形を巻くように山裾に道は続く。200年以上も前に幕府の手によって開削され、明治年間に新道ができてから使用されなくなった道が、最近地元の人の手で探索されて整備途中とのことである。昨年歩いた様似山道は同じ年にやはり幕府の手によって開削された道とのことである。いずれ、この道も様似山道のように標識等が整備されることを願いながら、この道を歩いたであろういにしえの旅人に思いを馳せながら歩く。途中には旅人の喉を潤したであろう沢や湧水地点も多い(4)

 時折クマの糞も落ちているが、当時の旅人はクマの恐怖にも怯えながら歩いたのであろうなど考えながら歩いていると、大きな沢地形を巻き、西に派生する尾根に乗ったところで、道が二つに分かれているところにぶつかる。方向的に尾根を下る方は地図に表示されている下の林道に繋がるようで、しかも、ウッドチップが敷かれている。これがNaさんからのメールにあったホーストレッキング用の道であろう。山道は尾根を横切る方との判断で右に進路を採ると、木の幹に巻かれた「山道ボランティア2003」と書かれたピンクのテープを見つけてホッとする。その先にも同様のテープが続く(5)

 ここから先が2003年に刈り払いをした部分のようで、そのテープに導かれてどんどん進む。ガロウ川が近づくと林道とクロスするところが多いが、テープを探しながら、沢に下りる尾根の上に続く道を辿る。ガロウ川の渡渉地点は、Naさんからのメールにあった通り、確かに地図上の林道の200mほど下流にある。

 沼見峠からちょうど1時間で渡渉地点に到着する。向かい側のピンクのテープを手がかりに石伝いに渡る(6)林道を横切って、向かい側の斜面に斜めに続く山道に入る。

 尾根に上がったところで、再び尾根を下る道と尾根を登って沢へ下りる道の分岐にぶつかる。この辺りには「山道」と書かれたピンクテープがなくなっている。多分ガロウ川のところで2003年のボランティアによる刈り払いも終えたのであろう。ここも進路を右に採る。「山道」と書かれたテープはなくなるが、何も書かれていないピンクテープが続き、道の上に生えている木を切って束ねたものがところどころに置かれている。この道をそのまま進むことにする。

 尾根を越えて沢沿いの道となり、上流へ進むが、気付いたらいつの間にかピンクテープが見えない。踏み跡は鹿道らしい。方向的にはその沢を源頭方向まで詰めても間違いではないが、どこかで対岸に渡る地点を見逃したらしい。案の定、100mほど戻ると対岸にピンクテープがあり、斜面に続く山道が見つかり、ホッとする。

 直ぐにトドマツの人工林の中に入り、林道を2本横切って、平坦な地形に続く3本目の林道に出たところで、その付や先にもピンクテープは見当たらない。GPSに入れてきた361m地点の手前であるがその林道はそこへ繋がっているらしい。その林道を右へ進みながらテープや刈り払いみちを捜すが、どこにも見当たらない。後でNaさんに聞いたら、やはり、そこが山道の最後で、あとは林道となっているとのことである。すなわち、ここが現存する山道部分の最後であるらしい。沼見峠から1時間45分である。

 361mの地点へ来たら林道の十字路にぶつかる。どこにもなんの標識もないが、地図とGPSで真ん中の道を進むと、やがて牧場の上の林道へと繋がる(7) 開放されたままのゲートから牧場の中の林道へと入り、そこから45分で登山口へ無事到着する。沼見峠からちょうど3時間の行程であった。この登山口までの林道も猿留山道が使われているらしく、さらに牧場の中を通り現在の追分峠へと抜けていたらしい。

 Naさんのお陰で、メインの豊似岳だけでなく、一気に観音岳経由猿留山道の8時間半にわたる循環縦走を無事終えることができた。まず、百人浜高齢者センターへ向かい、昨夜に引き続きそこの風呂で汗を流す。役場へゲートの鍵を返しに向かう途中で郷土博物館に寄って、Naさんにお礼と報告をする。猿留山道整備の中心となっている方で、彼が編集した『えりも町ふるさと再発見シリーズ3』という本をいただき、山道のことや整備後の予定など、さらには、明日予定のルチシ岳の登山ルートやその下山後に歩く予定の目黒側から沼見峠までの山道ルートなどについていろいろ教えていただく。


<猿留山道について> (Naさんの話や『えりも町ふるさと再発見シリーズ3』から抜粋・要約)
 
 この山道は、寛政11年(1799年)江戸幕府が資金を直接出して、最上徳内・中村小市郎らの指揮により、切り開かれた北海道最初の山道で、様似山道も同じ年に作られた。また、広尾〜猿留間のルベシベツ山道は、近藤重蔵が私費を投じて前年の寛政10年に作られたとのことである。

 当時、江戸幕府は北方警備を重要視し、大量の物資や人の輸送には風任せの木造船を利用していたが、輸送が安定せず陸路が必要であった。しかし、蝦夷地第一の難所とといわれた様似〜えりも〜広尾間は、日高山脈が太平洋に直接落ち込み、高い崖が続き、旅人を悩ませていたために、幌泉〜オタベツ川(歌別川)〜トヨニヌプリ(豊似岳)の中腹〜サルル川(猿留川)の中流〜現在の目黒地区の海岸に至る道路を開削したとのことである。この道路は、伊能忠敬、松浦武四郎、厚岸国泰寺の住職、根室・千島の警備する諸藩の兵など、多くの旅人が通り、紀行文や絵図がたくさん残されている。その後、明治時代に新道が開削されて使用されなくなった。

 この猿留山道がえりも町山中に一部残っているのが確認されたのが1996年のことで、町民有志の調査により、2003年春に残存している区間を確定することができた。全長約27kmと言われるこの山道は、現在、国道、町道、林道、作業道などに姿を変え、江戸時代の様子を窺うことができるのは、わずか9.3kmとのことである。(今回、私が沼見峠を挟んで、翌日と合わせて歩いた部分がこの部分で、町内でも通して歩いた人は稀で、町外者では多分私が初めてだろうとのことである)

 現在、2003年からボランティアを募り、その笹刈り整備等を進めているとのことで、5日後の10/10には、私が翌日歩いた目黒側の取り付き〜豊似湖分岐部分の刈り払い整備をし、来年にでも標識等を整備し、「猿留山道を歩く会」を実施する予定だそうである。

翌日歩いた笹刈り前の目黒側の「沼見峠以北の猿留山道」へつづく        最初へもどる  


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