私のスキ−史(2013,12,2 修正・加筆)

5才の頃
 家にあった「軍隊のスキー」を長靴につけて周りの畑や田んぼの中を歩いて遊ぶ。

○小学生時代
 叔母が使っていたらしい船の舳先のようなポッチのついた単板のスキーに長靴、綿入れのドテラを着て、大野川の堤防や大野農業高校の裏の観音山の斜面で滑って遊ぶ。そのころ、カンダハーのスキーで直滑降で滑り、二本揃えて曲げて雪煙上げて急停止する大人の姿に憧れる。

○中学生時代  記憶なし

○高校生時代
 1年のとき、七飯町の今のニヤマ高原スキー場の下に引っ越す。周りのみんながスキーを持っていて、活躍している競技選手もいる。初めて、カザマのカンダハーの単板スキーとゴム製のスキー靴を買ってもらい、休日はもっぱら当時の仁山スキー場で滑る。
  2年のとき、初滑りの日に吹き溜まりに突っ込んで大転倒。スノーボートを断って、痛い足を引きずり家まで辿り着くも、起き上がれなくなる。幸い臀部に黒タンができただけの打撲で済むが、1週間ぶりに学校に出ると、「骨折で入院」ということになっていた。

○大学生時代
 高校時代の延長で、冬の休日は仁山スキー場で滑っていた。このころウェーデルンという技術が入ってきて、見よう見まねで滑る。用具の記憶なし。ただ、ストックはトンキン竹?や合竹(6角形)が流行し、自分も使っていた。
 3年のとき、国設大沼スキー場(今は閉鎖されている吉野山)が整備され、道南最初のリフトができる。その後、仁山スキー場にもリフトができる。
  4年のとき、アルバイトしたお金で、ミズノのユニグラススキーなるものと皮の靴を買ったの覚えている。締め具は、1mもの皮でぐるぐる巻きにしたラングリーメンというもので、皮が切れる以外は、転倒しても絶対外れることのないものであった。

○20代前半(1級挑戦のころ)
 函館に勤務し、社会人1年目で初めて講習会なるものを受ける。「受講者で一番うまい」といわれ、ゼッケン1番をもらい、得意になっていきなり1級を受検するも、2点不足とかで見事不合格。その後、「強いスキーだが、我流のクセが抜けない」との評に、型にはめられるスキーへの反発もあって、受けたり受けなかったりで、1級合格はその3年後である。

○20代後半から30代前半(準指・指導員取得、デモ選、ジュニア教室担当のころ)
   〜最も、スキーに情熱を燃やした頃〜
 1級をとった時点で、連盟の偉い先生から「来年はすぐ準指を受けるるように」と言われるが、その頃の準指の合格率は全道で30%くらいで、「3年通う」のが普通であった。経済的にも精神的にも夢の世界の話であった。
 しかし、翌年、周りから煽てられ「1回だけ受けて、落ちたら止める」の一念で挑戦。全道で450 名の受検者が理論で360 名に絞られ、実技検定は札幌の藻岩山スキー場。「合格者 121名」との発表に、 122番という自分の受験番号に胸が痛む。呼ばれて、思わず「ハ、ハ、ハイ!」 講評で「今年もまた不幸にして一発での合格者が28名いますが・・・」、何が不幸か、幸せの頂点であった。ちなみに私の次のゼッケンが、後に富良野スキー学校の校長となる酒井氏である。
 その1週間後の全日本デモンストレーター選考会函館地区予選で、5人の出場枠ギリギリで北海道大会へ、以降6年連続出場し、地区では、デモンストレーターとしての活躍の場もあったが、北海道大会は常に「後進国のオリンピック選手気分」のままで終わる。毎年通った小樽の天狗山の斜面は、満足に思う通りに滑ったという実感がなく、悔しい思いしか残っていない。ただ、指導員検定もその斜面だったので、気楽に受検することができた。花園だんごと館のケーキが懐かしい。
 講習会・検定会では、若かったので、いつも1・2級班ばかり持たされ、いつのまにか「講習は優しいけど、検定には厳しい先生」の評が定着。しかし、「S先生に1級もらうと、次の準指検定は大丈夫。」の評も。(余計な苦労をさせない親心!)
 指導員取得後は函館スキー連盟の理事にされ、ジュニアスキー教室の企画運営を6年ほど任される。その頃は 150名定員の募集が募集日の30分で満杯になり、ありとあらゆる手を使ってお願いされるのを断るのにもの凄く苦労したことが懐かしい。

○30代後半(北海道スキー連盟技術員、南茅部町スキー協会設立のころ)
 35歳のとき、北海道スキー連盟技術員に推薦され、準指受験者養成に2年間励むが、勤務の関係で1年間の長期研修(江別)の機会を与えられたのを機に、すべてのスキーの役職を辞退する。
 長期研修の翌年、南茅部町(現函館市)へ転勤。冬も忙しいスケソウ漁と昆布漁業の町である。臼尻小学校の裏山に名ばかりのスキー場はあったが、級を持つものは一人もいない。そのスキー場で元気が取り柄の若い数人のグループに出会う。そこでの3年間は、その地元の若者を特訓し、1年目でスキー協会を作り、2年目で、初めて検定会に連れていき、2級を5人、次の年に1級を2人出し、そのメンバーを中心としたリーダーを育てることに情熱を燃やす。その中に、北海道で漁師の指導員第1号になり、全日本のブロック技術員も務めたY氏をはじめ、今(2005年現在)では15人もの指導員がいる大所帯で、中でも、漁師が6人もいるのが特筆ものである。

○40代前半(函館スキー指導員会副委員長のころ)
  3年で再び函館に戻ったが、函館スキー指導員会副委員長のポストが待っていた。機関誌「シー・ハイル」の発刊とその編集を一手に引き受け、役職が変わってもこれだけは、自分にやらせてもらい、2005年現在17号を数える。南茅部スキー協会のアフターケアーをしながら、だんだん楽しむスキー変わってくる。

○40代後半(函館スキー指導員会副委員長、南茅部スキー協会顧問)
 さらに3年後、妙な縁で、再び南茅部に転勤となる。3年前までは先頭を切って滑っていたが、若い者に任せ、顧問という立場で後ろから滑り、ゲキを飛ばす側に変身した4年であった。その後、八雲町に転勤、ここも指導員仲間がたくさんいる町で、暖かく迎えられ、八雲スキー協会の行事での指導と、仕事が終わってからの今金のピリカスキー場での温泉が楽しみのナイターが主なスキーであった。

○50代前半(函館スキー指導員会委員長〜副会長、クロカンスキーにはまる)
 八雲に3年いたが、そのうち函館スキー指導員会委員長を2年勤め、函館への転勤し、副会長になる。あらたに、山登りの延長で冬も汗をかきたくて、クロカンスキー(スケーティング走法)を始め、レースにも出場するようになる。

○50代後半(函館スキー指導員会会長、クロカンスキークラブ「XC-KID’S」会長、さらに、山スキーにはまる)
  現場での仕事(指導・検定)が少なくなり、クロカンと山スキーにはまり、だんだんゲレンデから足が遠のく。1月から2月はクロカンレースに参加。その合間とその後の5月のGWまでは、日帰り山スキーとゲレンデスキー・・・まさに、3種混合スキー三昧の冬になってしまう。
 とくに、山スキーを始めたことにより、夏道のない山への登頂、深雪滑降の快感を覚え、ますますはまりそうな勢いである。 ・・・・とのんびりしていたが、2002年の函館スキー指導員会総会で会長に選出され、少しはゲレンデにも顔を出さなくてはならなくなった。

 
○60代前半(函館スキー指導員会会長、北海道スキー指導者協会副会長、クロカンスキークラブ「XC-KID’S」会長、3種混合スキー三昧の世界
  リフトがシニア料金となり、ちょっとショックであったが、安いことは大いに助かる。しかし、滑りまではまだシニアになりたくないとばかり、ゲレンデ用の新しい160cmのカービングスキー〈OGASAKA)と靴(サロモン)を買い換える。よりカービングの性能が良くなっているようで、滑りも快調で、退職後でもあり、平日の滑走日数が増えるようになった。山スキーもゲレンデとの共用を止め、軽い山スキー専門の板を買い換えた。
 また、クロカンの平日の練習も可能になり、6週連続出場の大会では、全てこれまでの最高タイムを出すことができ、60歳の部では優勝や入賞も果たすことができた。 さらに、2005年10月、全道各地のスキー指導員会やスキー指導者連盟を統括する北海道スキー指導者協会の副会長に選出され、年に数回の札幌での会議へ出席もしなくてはならなくなった。

○60代後半(函館スキー指導員会会長、北海道スキー指導者協会副会長、クロカンスキークラブ「XC-KID’S」会長、3種混合スキー三昧の世界
 役職的には変化のない5年間だった。6期12年になる函館スキー指導員会会長は、70歳を迎える時点で後進に道を譲るつもりだ。
 ゲレンデスキーは、中高年のスキーを中心としたスポーツクラブ「函館ライフスポーツ」のコーチスタッフとして、その講習会の指導の機会が増え、充実感が増した。
 クロカンスキーは、相変わらず1〜3月上旬の間、5週〜6週連続の大会出場を続けることができた。しかし、自然の摂理だが、年齢と共に、タイムや順位が徐々に落ちてきている。しかし、この年齢になって若い人とたちと一緒に、50km(札幌国際)、85km(湧別原野)、65km(十勝)などのロングコースを完走者の真ん中より上の順位で滑走出来ている自分がうれしい。70歳代の参加者は数えるくらいしかいなくなるが、参加し続けたいと思っている。
 山スキーは、良く一緒に登っていたが事故でなくなったFuさんの形見のスキー・兼用靴・ストックを使用させてもらって、あちこち楽しんでいる。さらに、幅広のロッカースキーを新調し、より一層快適な深雪滑降も楽しんでいる。



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