函館山・寒川海岸・穴澗ルンゼ探訪   2名  05,3,15
七曲りコース〜千畳敷〜寒川海岸〜穴間ルンゼ登り〜山背泊連絡路(下り)〜寒川海岸〜千畳敷コース〜汐見コース
例年に比べて積雪の多い函館山から裏側の寒川海岸へ下り、穴間ルンゼ登りなどのワイルドな登山を楽しんむ。

 七曲がりコースから旧登山道へ(97,12,27)   秘境・寒川海岸を訪ねるへ(99.3.22)
函館山春の花訪ねるコースへ(99.4,29)  三十三観音像を訪ねるコースへ(9911,03)
  函館山21世紀ご来光登山(01,01,01)へ  雪山トレッキング(03,2,01)へ  晩秋の函館山(04,11.20)

登下山
地  点
11:40
12:05
12:50
13:30
(昼食)
14:25
14:40
14:45
15:00
15:25
16:10
16:25
17:00
登山口駐車場
七曲りコース
寒川コース下り口
寒川海岸
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穴澗ルンゼ(登り)
穴澗神社
山背泊連絡路(下り)
再び海岸へ
寒川コース(登り)
寒川コース下り口
汐見コース
登山口駐車場
[5:20]総所要時間
17:10 谷地頭温泉入浴

<横津岳から下山して函館山へ>
 平日でも同行可能なFuさん(最近の七飯岳二股岳へ同行)と二人で、横津岳〜袴腰岳を山スキーで歩く予定で、横津岳スキー場からまずは横津岳をめざした。しかし、頂上へ着く頃から強風とガスに見舞われ、袴腰岳までの縦走を諦め下山する。

 ところが、下山後、函館へ戻る頃には天候がすっかり回復する。二人とも悔しさと消化不良感に苛まされる。温泉に入って帰宅するにはあまりにも早い時刻である。ふと思いつき、「長靴で函館山でも歩きましょうか?」ということになる。しかし、ただありきたりのコースを歩くのは物足りない。そこで、函館山裏側の寒川・穴澗海岸探訪をメインに登山口を目指す。

 登山口駐車場に着いて、びっくり・・・平日にもかかわらず駐車場から車が溢れている。このような状態は初めての経験である。今年になってから冬の登山者が急増していると新聞に出ていたことを思いだし納得する。私がこの函館山を執筆した昨年発刊の『北海道スノーハイキング』(北海道新聞社)の影響があるわけでもあるまい?

 仕方ないので道路に違法駐車して出発する。まずは宮ノ森コースへ入る。例年の今頃はもうほとんど積雪はないのだが、今年は異常に多い。碧血碑の前を通り七曲りコース入口を目指す。途中の鶯谷コースにトレースがあったらそこを登るつもりであったが、人の歩いた痕跡すらないのとあまりの雪の深さに諦めてそのまま進む。

七曲りコースに入る。まだ50cm以上もの積雪がある。こんなに雪深い函館山を歩くのは初めてである。しかし、ツボ足のトレースはしっかりと付いている。地蔵山展望台から立待岬と汐首岬を眺めながら一回目の休憩。白波の立つ海面の色と空はもうすっかり春のそれである。まだ真っ白な恵山も見えている(1)。

 千畳敷の下から、本来であれば歩くはずであった横津岳〜袴腰岳の稜線を眺め(2)、寒川海岸への下り口のある牛の背へ上がる。下り口から見ると、今日のものと思われる複数の人が下りたと思われる新しいトレースが付いている。

<寒川海岸へ下り、辺境の集落跡に思いを馳せる>
 深い雪のトレースを辿り、海を目指して、急な尾根から右手の沢地形へと下りていくと(3)、下から二人の男性が登ってくる。「今年の夏にニペソツ山に登りたいのでトレーニングを兼ねてこの函館山へ登っている」とのことで、立ち止まってしばし山談義に耽る。さらに二人の男性が登って来て、海岸が近くなって来た頃、一人の男性が登ってくる。「坂口さん?」と尋ねられて顔を見ると、なんと6年前にこの寒川海岸へ初めて連れてきていただいたTeさんである。逢ったのもそれ以来で懐かしい奇遇にびっくりする。彼の話では、帰りに登るつもりの「山背泊連絡路の上から入江山へのルートは誰も歩いていないと思う」とのことで、このコースを往復したそうである。

 海岸に下りた一帯は寒川集落があったところで、4年前に設置された「寒川部落、鹿島神社跡」と刻まれた石碑のほかに、新しく「明治二十八年(一九〇五年)富山県下新川郡宮崎村より水島竹松他数十名新天地を求めて寒川の地を移住地した地 定設者 水島政治」と刻まれた石碑が設置されていた(4)。Fuさんが昨夏来たときにはなかったそうで、ごく最近の設置であろう。当時東京以北随一の都会であった函館市のシンボルでもあるこの函館山の裏側の両側を断崖絶壁に阻まれた(5,6)辺境の集落の歴史や当時の人々の営みに思いを馳せながら遅い昼食を摂る(7)。

 しかし、帰宅後、手元にある文献を見たら、一番先の入植はそれより約20年前の「明治17年(1884年)水島和吉ら約6戸20名が宮崎村から入植」とある。この碑の竹松は和吉の弟で、後から移住してきたようである。この辺境の集落も70年後(1954年)の洞爺丸台風で壊滅状態となり、最後の住人がこの地を去ったのは1957年だそうである。

<穴澗ルンゼを登り、山背泊連絡路を下りて、集落跡へ戻る>
 昼食を済ませ、Fuさんがまだ行ったことがないという穴澗を目指して、海岸線の石を伝って歩いていく。途中で、山背泊から山を越えて来た漁師と思われる5人がフノリや海草採りをしていたので、入江山へのコースのことを聞くと「誰も歩いた足跡はない」とのことである。先へ進んで、リュックを彼等の上り下りしている山背泊連絡路の登り口に置いて穴澗を目指す。
 

 昔は吊り橋があった穴澗岬まで行き、根元の昔に人が通っていた痕跡を見る。ふと、その右側にあるルンゼを覗くと上からロープが下がっている(8)。かなりの急傾斜にもかかわらず、ここを登ったばかりの一人の新しい足跡が残雪に残っていて、上を見るとその人影がチラッと見える。その新しい足跡と人影に冒険心を誘発されて、「登ってみましょうか?」とFuさんに振ってみると、二つ返事が返ってきた。

 後ろから写真を撮りたいので、彼に先に登ってもらう。ロープがなければ絶対登れない急傾斜で落石の恐れもある(9)。上の傾斜が緩んだところまで登ったFuさんの合図でスタートする。3本ほどのロープを束ねて握り、それに命を預けての登りである。、「ここを下るのは怖いな〜。リュックを置いてきたところへ下りる山背泊連絡路へうまく出たら、そちらを下りよう」と思いながらも、必死で登り切る。

 出たところは案の定、稜線を越えた山背泊へ下りる路の途中で、改装された穴澗神社の近くであった。海岸で海草採りをしていた漁師たちのトレースが上の方から続いている。「あのルンゼを下りなくてもよい」と胸をなで下ろす。

 入江山へのルートはやはり誰も歩いていなかった。雪の深さも膝より深いのでそのルートは諦めることにする。これまで何度も登ったことのある山背泊連絡路を初めて下っていく。ここもロープを頼りに急斜面をトラバースして下るルートである。しかし、先ほど登った穴澗ルンゼに比べるとものの比ではない。大きな岩壁の下を通り(10)、少し下ると海草採りを終え帰路に就いていた漁師が5人休んでいた。「穴澗のところを登って、ここを下りて、またもと来たところを登って帰るのか?ご苦労さんだね〜」と呆れていた。

 海岸まで下り、デポして置いたリュックを背負い、寒川集落跡まで戻り、下ってきた寒川ルートへ取り付く(11)。ここは何度も下っているが、登り返すのは初めてである。下の方は雪はないが、少し上に登ると深い雪である。急な登りのトレースを辿り稜線に出たら、すでに16時を回っていた。一つの山で3回の登りを楽しんだことになる。

 汐見コースを下りて、登山口を目指す。駐車場から溢れていた車もこの時刻ではさすが我々の2台だけであった。市営の谷地頭温泉で、横津岳登山と合わせて、合計7時間以上にわたるハードな山行の汗を流す。


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