礼文華山道を歩く  
単独  11,6、16
今も地形図に載っている明治27年から昭和41年まで使われた礼文華山道(旧国道)を歩く

9:20 長万部側入口
         (MTBデポ)
9:35 豊浦側入口(車デポ)
時刻
地 点
 9:40
10:35
10:40
11:00
12:00
豊浦側入口
古道入口
相撲取り場跡
礼文華峠
長万部側入口
[2:20]所要時間

12:35 豊浦側入口
15:30 帰宅
右の2冊は、平成16年に仕事の関係で、著者の三浦宏氏(道路雑学研究家・北海道開発局OB)から直接いただいていたものだが(1)、それによると、「礼文華山道」は、断崖絶壁が続く静狩海岸から礼文華海岸までの区間の海岸線が通れないために(2)江戸時代に開かれた長万部町静狩と豊浦町礼文華の境界に位置する礼文華峠を中心とした山道で、静狩峠も含めてそう呼んでいたようである。

 江戸時代から明治初期にかけての「礼文華山道」(地元では、旧国道と区別して、「礼文華峠古道」と呼んでいる)は、「猿留山道」「雷電山道」とともに蝦夷地の三大難所のひとつに数えられていたとのこと。

 明治になって、「札幌本道」を建設する際も、森〜室蘭間を海路で繋いだのは、この山道のあまりの峻険さに改修を諦めて見送ったことに因る。安政年間に松浦武四郎は3度、明治11年にイザベラバード女子もこの山道を歩いて、それぞれの著書にこの道のことを書いている。当時の山道のほとんどは、まだ山に埋もれたままになっているらしいが、一ヶ所だけ200mほど「礼文華峠古道」として復元されていた。
 
 ブログに先にアップしたら、6月初旬に歩いた岳友・低山大好きさんからコメントをいただき、森林公園から途中の「森林公園まで1600m」の看板の所までの自然観察道路も「礼文華古道」だったことが判明し、下掲の地図に記入した・・・近々歩いてみなくては・・・。

 この度歩いてきた「礼文華山道」(7.8km)は、明治23年に本格的な工事が始まり、明治27年に完成し、その後、度重なる改修を経て、昭和41年に国道37号線が別ルートで開通するまで利用された旧国道である。 なお、これらの詳しい歴史については、三浦氏の著書をPDFにして掲載されている下記でも読むことができる。 
 http://www.hokuhoku.ne.jp/rmec/05pdf/05-4041.pdf



 朝、家を出て、まずは、万部側の入口(長万部と豊浦町の境界付近の国道37号線の最高地点)にMTBをデポした。その入り口には、最近になってから設置された標識が立っていた(3)

 礼文華にある豊浦森林公園手前にある豊浦側の入口に車をデポして、スタート(4)

 スタート地点から道路がグレーダーで削られ、大型ダンプと思われる新しいタイヤ痕が残っている。5月にバイクで通過した黒ウサギさんのHPで見ていた道路の様子とのあまりの違ういにガッカリしながら歩き始める。
 
 もともと、この山道は、車が通るために改修された旧国道であって、江戸時代から明治初期に掛けての山道とは違うとは解ってはいたが、それでもイメージダウンである。どこまでこれが続くのかと、うんざりしながらくねくねとつづら折りとなって続く道路を進んでいく。

45分ほど歩いた地点で、右側に「森林公園まで1600km」と書かれた標識が立って、道が付いていた(5→)そのときに、「もしかしたら、この道が昔の山道なのでは?」と思ったが、標識もなく、そのまま通過。しかし、案の定、これが、帰宅後アップしたブログにコメントを頂いて判明した「礼文華峠古道」の一部だったことが判明。

 1時間ほどの地点の右側に、なにも標識はないが、梯子があり、尾根上に昔の山道らしい雰囲気の掘れた道が復元された形で続いている・・・「これは、間違いなく、この旧国道が造られる前の昔の山道に違いない」と道路を外れて、そちらへ入る(6→)

 その先の尾根の上に、これまであちこちの山道で見て、歩いてきた明らかに人馬が通って掘れた古道の雰囲気が漂う道が続いていた。昔の山道は、ほとんど尾根上に付けられていることが多い(7↓)喜々として歩いていたら、わずか200m程で、再び道路にぶつかる・・・「ありゃ、たったこれだけ?」と思いながらも、蝦夷地三大難所と言われた昔の礼文華山道のほんの一部を歩けただけでもうれしかった。

 道路にぶつかる手前には、「相撲取り場」と「礼文華峠古道」と書かれた標識が立っていて、ブルドーザーと乗用車が停まっていた(8↓)

 「こんなところになぜ相撲取り場が?」と思っていると、乗用車の主の道路の工事関係者の男性がやってきた。早速、道路の改修のことを聞いてみた。「ここから1kmほどの地点に左側へ続く林道があり、その改修工事のために車が通れるようにしているのです。今、この直ぐ下で砂利を運んできた大型ダンプが埋まって動けなくなっている」とのこと。確かに、ブンブンとエンジン音と重機で引っ張り上げているような音がしていた。確かに、その先の道路は、ダンプのタイヤ痕はなく、グレーダーで路面を削った跡だけになっていた。「礼文華峠古道」のことはほとんど知らない様子だった。


 そこの道路はヘアピンカーブになっていて、尾根が削られて岩が露出していた。「この道路で寸断された尾根の先には、多分、古道が続いているはず・・・」と思った(9)この後、道路の草刈りをしていた地元の人に聞いたら、やっぱりそうだが、まだ復元はしていないとのことだった。ふと後ろを振り返ったら、北側の展望が広がっているところがある。昆布岳とその右に羊蹄山の山頂部が見え、手前には国道37号線が見えた(10)昔の旅人もここで、昆布岳と羊蹄山の頭を眺めたのであろう。ここが、唯一、古道の雰囲気を残す地点だった
 
 さらに傾斜の緩んだグレーダーで削られた道を進んでいくと、一番高い地点へ到着。標高290mの地形図上にも記載されている「礼文華峠」のはずだが、標識はなかった。南側が削られてわずかに広くなっているが、尾根の上ではないので、展望はまったくなし(11)ここまでで、途中の工事関係者との10分ほどのお喋りを入れて1時間40分ほど。

 峠の先100mほどの左手に林道分岐があり、その先へ続く林道の改修工事がされていた(12)工事関係者の車も停まっていた。この工事の関係で、ここまでの豊浦側は、これからも林道として復活するのだろう。せめて、長万部側の方はそうならないで欲しいと願いながら通過した。


 林道分岐を過ぎると、一転して、轍だけが残る荒れた道となる。ずっとぬかるんでいて、スパイク長靴でなく。トレイルランシューズで来たことを悔やみながら、足元を気にしながら下っていく(13)

 やがて、草刈りをしている4人の男性に出会う(14)この方々は、ボランティアでこの山道の管理と古道の探索や歴史研究をしているメンバーで、中の一人は、この礼文華山道や礼文華峠古道について、非常に方で、いろいろ教えていただいた。

  「この道路も、昭和年代になって車が通るようになってだいぶ改修されている。最近、古道ブームで、小幌駅や小幌海岸とセットでこの道を歩くツアーもあったりで、歩く人が増えてきたので、草刈りをしている。しかし、この道を昔の礼文華山道と勘違いしている人が多い。昔の山道のこの辺りは、このずっと上の険しい尾根の上に続いていて、凄く険しい道だった。昭和初期の地図にはその道が載っているし、ネットで、江戸時代?に書かれたその山道の7枚続きの鳥瞰図が見られる。それは、もの凄い迫力ですよ。これまでに見つけた古道の痕跡を復活させたいが、いろいろ難しい問題があって、どこまでできるか判りません。」とのこと。地形図で見ると、現在の長万部と豊浦の境界線が険しそうな尾根になっているので、その辺りを通っていたのかも知れない。帰宅後、その鳥瞰図を検索して探してみたが、まだ見つけられないでいる。



 やがて、左手の樹間から噴火湾とそれを挟んだ渡島半島の山並みが見えてくるようになる。初めは、雄鉾岳辺りが見えていたが、更に進むと、眼下に国道37号線の礼文華橋と噴火湾を挟んで駒ヶ岳が見えてくる(15)。この昔の山道を3度歩いた松浦武四郎の『東蝦夷日記』には、駒ヶ岳の遠望の記述がいくつも見られるとのこと・・・険しい峠道を通過するたびに、噴火湾の眺めに心を癒やしたことであろう。 

 ここまで来ると、ゴールは近い。眼下の小幌橋の架かる谷間の下に、4年前の秋に探訪した秘境駅全国1の小幌駅が見えた。やがて、鎖のゲートがあり、そこを通過して左へ曲がると、改修前の旧国道37号線にぶつかり、少し走れば現道である国道37線へ出る。そこがゴール。「礼文華山道」の標識の支柱にチェーンで停めて置いたmyMTBが待っていた。この後、国道を豊浦側へMTBで下り、スタート地点へ戻った。礼文華トンネルと礼文トンネルには1.5m程の幅の歩道があったが、自転車で通るには結構怖かった。

 今日歩いたこの礼文華山道は、車が走るために明治になってから造られた旧国道だったので、これまで歩いた江戸時代から明治時代の人馬だけの古道を復活した「様似山道」「猿留山道」「濃昼山道」と違って、かなり物足りなかった・・・。今後、今回歩き損なった森林公園からの道も含めて、「礼文華古道」が、さらに復活することを願って止まない。


「北海道山紀行」目次へ   HOMEへ

inserted by FC2 system