ペラリ山(718m)  西尾根コース  単独  03,10,20

2年前に登山道が整備されて、実際に登ってきた方からの唯一の情報をもとに、南日高山脈測量登山出発の一等三角点の山を訪れる。

 9:00 横山中岳登山口
10:00 ペラリ山登山口
登山
地点
下山
10:10
10:30
11:50
登山口(400m)
504ポコ
頂 上
11:35
11:50
12:05
[0:40]所要時間[0:30]
13:00 新冠温泉レコードの湯(入浴)
19:00 帰宅

GPSトラックログに基づいた登山口
までの詳しいルート&登山道(94kb)
 この山の存在は、myHPの函館の愛読者夫婦が昨年同じ静内町のピセナイ岳に登りに出かけたが、道路崩壊のため諦めた際に、役場の方からこの山の登山口までの詳しい地図をもらって登ってきたというメールをいただいて初めて知った山である。その方の話ではピセナイ岳に登れなくなったので、静内町が町民登山会のために、一昨年登山道を整備したばかりの山だそうである。そのときの登山口までの地図のコピーを送っていただいて1年以上が過ぎていたのである。しかも、頂上登山口への案内標識を見るまで「ベラリ(berari)山」とばっかり思っていたのである。道理でインターネットで検索してもなんの情報も出てこないはずである。

 それだけの情報を頼りに、隣町の三石町の横山中岳と一日2山の計画で登ったら、頂上に当別丸山(函館近郊)や写万部岳(長万部町)で目にした天測点が設置されている一等三角点の山であることが分かる。帰宅してから「ペラリ(perari)山」と検索して、初めて分かったことであるが、この山は日高地方の測量の基礎になり、南日高山脈測量登山出発の山となった歴史的由緒のある山だったのである。
 
 この山の歴史的な紹介は、道新スポーツの「ふるさとの山巡り」に詳しく紹介さている。(ただし、山の写真の紹介は間違って西隣のピークとなっている。) 興味のある部分を抜粋すると、下記の通りである。
 1898年(明治31年)、陸地測量部の測量官・館潔彦は、ここを一等三角点に選んだ。点の名称は「比裸騾(ペララ)山」。この三角点は、日高地方の測量の基礎となった。ペラリはなぞの地名でもある。幕末の探検家松浦武四郎はペラリといい、意味はわからないとしている。明治の地名辞典で永田方正はペララと書き「水が戦うところ」、または「水が悪い」とした。静内町史では「がけのあるところ」という、疑問が残る。
 東端には大きな天文観測台(1954年(昭和29年)観測)、5メートルほど先に、1902年に埋石した三角点があった。明治の測量では、高いやぐらを建ててペラリ山の三角点と、カムイエクウチカウシ山、楽古(ラッコ)岳などの一等点を結んで観測した。
 新田次郎の『剣岳・点の記』のモデルとなった柴崎芳太郎という測量官は、1913年(大正2年)、ここをカムイ岳、ピリカヌプリ、ペテガリ岳などのニ等点観測の基点としている。南日高山脈の測量登山の出発点となった山である。

 さて、登山口までのルートであるが、詳しくはGPSのトラックログを採ってきて、地形図に説明を付けてあるのでそちらを参照して欲しい。静内町市街地から静内川沿いの、今年実質的に工事中止になった日高横断道路へ続く道々静内中札内線を御園まで進む。市街地を抜けると右手の奥に目指すペラリ山が見えてくる(1)。昔の御園小学校を利用した静内ふれあいセンター御園館の前を通り、静内川に架かる御園橋を渡り、右折し対岸を少し戻ると「山下産業採石プラント」がある。そこに左側に入る道がある。そこを左折して両側にたくさんの競馬牧場が続く中を進む。その正面に目指す頂上が見える。しばらく直進し、原牧場のところから左折し、道なりに進むとT字路に待合小屋のみのバス停?がある。そこを右折し再び山に向かって直進する。やがて、その道は右にカーブして登って行くが橋を渡る手前の分岐を左に下りて行く。左手に民家がある。ここから川沿いの未舗装の林道を少し進むと舗装した分岐に出会う(その先は浄水場)が、川沿いの未舗装の林道をそのまま進む。そこから500mほど進むと分岐の左側に「ペラリ山登山口入口」の標識が立っている(2)。ここから右折すると、雨裂が入ったかなり荒れた急カーブや急登、真ん中に草が生えたり、崖崩れの跡があったりで、ほんとうにその先に登山口があるのだろうかと不安になるような感じの林道である。このあと整備されていなければ、RV車でなければ、2kmの歩きが大儀でなければ、この分岐に車を置いて行った方がいいかも知れない。その標識の立つ分岐から2km進むとさらに分岐があり、そこに「ペラリ山登山口」の標識を見つけホッとする(3)。

 すでに標高400m地点の登山口には10台以上の駐車スペースが用意されていて、その先に整備された登山道が続いている。目の前に見えるピークは504ピークである。標高差320mほどの道のりなので、およそ1時間くらいであろうとの見当で出発する。まずは、504ピークの急な斜面をトラバース気味に登り、やがて尾根に乗る。早朝に登った横山中岳と同じくかなり急な登りである。20分ほどで、504ピークに到着すると、目の前に目指す頂上が見える(4)。振り返ると、静内川沿いに競馬牧場が連なる静内平野や通ってきた道路などが見える(5)。

 あとは一度下ってコルを越え、頂上まで続く西尾根を登るらしいが、その南側斜面は頂上近くまで伐採道跡が入り乱れていて、伐採されたまま植林もされていないようで痛々しい感じさえする。おそらく以前はこの林道や伐採道跡を繋いで頂上へ登っていたのかも知れないが、町民登山会のために尾根伝いに登山道を整備したのであろう。そんなことを考えながらコルを越えるとその伐採道跡のひとつに出る。ちょっとがっかりしたら、直ぐに離れ、尾根へ向かう浅い笹薮の中に登山道は続いている(6)。

 その辺りからかなりの急登が続き、伐採地の端を通り、そのまま伐採道跡をかわして尾根上を忠実に頂上を目指す。650m附近でようやく伐採斜面が視野から消える。やがて、南側に先ほど登った横山中岳が見え、登山口から40分で緩やかな広く刈り払われた頂上へ到着する。
 
 一番先に目に飛び込んできたのが、これまで2度目にしたことがある天測点の大きなコンクリートの四角柱である。その奥に新しい頂上標識が立っている(7)。周りはすっかり葉の落ちたダケカンバ林と膝上くらいまでの笹原が広がり、楽しみにしていた日高山脈の主稜線の眺望はそのダケカンバに阻まれて全然見えない。なんとか少しでも見えるところまでと笹原を漕いで奥の方へ進むと、ようやく樹間からピセナイ山の左側に雪を抱いたペテガリ岳の西斜面と隣のルベツネ山が微かに霞んで見える(8)。さらに、西側に移動すると、やはり雪を抱いた鋭峰が覗く。これは位置的に1839峰に間違いない(9)。それだけのわずかな眺望に満足して、頂上へ戻り、ポカポカ陽気の中のんびりと目の前に広がる太平洋を眺めながら30分ほど休憩する。

 下りは急なのに新しい道なのでステップも刻まれてないので、横山中岳と同じちょこまか歩きで靴底のグリップ力だけを頼りに滑るように下る。特に腿への負担がきつい。(帰宅して三日経った今でも珍しく腿の前面だけが強烈な筋肉痛である。) 下山後、新冠温泉レコードの湯に浸かり、海草ラーメン(みそ味)を食べて、高速を繋ぎ、帰宅する。

 帰宅後、この頂上で三箇所で目にした「天測点」について、検索してみたら、下記のようなことが判明した(以下、一部抜粋)
 天測点は、星(恒星)を観測して座標(経度、緯度)を決める測量(天文測量)に使用したもので、昭和26年から昭和33年の5年間で全国に48点を設置した(その後、一部廃点)もので、北海道には8箇所存在するらしい。昭和34年以降は観測機器が改良され、軽量化が進み、この天測点は必要なくなり、現在では約450の三角点上で、天文測量を実施している。とのことである。 

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