今回の奥州街道(道中)・日光街道・甲州街道は、五街道でもあり、ガイドブックが多く発刊されている。
そこで、上記の2冊(山と渓谷社)を購入し、計画を立てた。また、現地でも持ち歩くことにした。
なお、これまで通り、実質歩行距離の計測と自分の現在地を知るために、GPSとスマホのランニング用アプリ「jognote」を利用することにした。
jognoteは、googlemapなので、建物や店の名前や信号の場所も提示されるので、非常に助かる。
しかし、結果的には、ガイド地図で十分間に合ったので、「jognote」は使うことはなかった。
装備は、これまで通り、登山用具やランニング用品で間に合わせる。
日が短いので、6時出発で、1日30q〜35km平均で計画を立ててみた。
山旅は車中泊で安上がりだが、歩き旅の難点は宿代が掛かることである。
これまで通り、できるだけ安い宿を探して、素泊まりを中心に、食費も抑えてケチケチ旅行に徹するつもり。
基本的に1日の食費を2000円程度に抑え、宿代と含めて6000円程度になるように考えた。
<奥州街道(奥州道中)と行程結果>
奥州街道とは
日本橋から三厩までの約800km、110以上の宿場を持つ、最長の街道である。この端から端までは、松前藩の参勤交代が利用した街道である。
そのうち、「松前道」と呼ばれているのは、三厩宿〜盛岡宿間の22の宿場を繋ぐ約280kmの道のりである。
これより南の盛岡宿〜仙台宿間は、仙台宿〜白河宿間は「仙台道」と呼ばれている。
今回の白河宿〜日本橋までは、江戸幕府が直轄した「奥州道中」と呼ばれている。
奥州道中とは
これまで歩いてきた白河以北の奥州街道は、「奥州奥道中」と呼ばれ、勘定奉行の管轄に置かれ、各藩で維持管理が行われた。
ちなみに、仙台に本社のある東北ブロック紙「河北新報」の由来は、この白河以北に由来している。
今回歩こうとしている残りの白河から江戸までは
幕府道中奉行が管轄し、「奥州道中」(江戸から宇都宮とは日光街道と重複)と呼ばれている。
総延長 日本橋から白河まで48里(約190q) 27次 5泊6日程度の行程。
(うち、白河から宇都宮まで21里18町14間半(約85km) 10次 2泊3日程度の行程)
しかし、元和3年(1617)、日光東照宮が完成した頃、日光道中が成立し日本橋から宇都宮を経由し日光に至る街道が「日光街道(道中)」と呼ばれ、宇都宮から先の白河に至る道だけが「奥州街道(道中)」と呼ばれるようになった。
そこで、今回は、白河〜宇都宮間までを「奥州街道」とし、日光〜宇都宮〜江戸間を「日光街道」として記録した。
そのために、宇都宮を奥州街道の一応のゴールとし、日光までJRで移動し、日光を日光街道のスタートとして、江戸を目指すことにした。
行程結果
※距離はGPSによる実質測定距離(迷ったり、寄り道したりした分も含まれる)
<日光街道と行程結果>
日光街道(日光道中)とは
日光道中が正式名。日光東照宮ができた頃ほぼ日光道中の道筋が確立した。
日光には、東照大権現と崇められた徳川家康の墓があり、歴代将軍や諸大名の社参の道として整備された。
また、江戸から宇都宮までは東北へ向かう奥州街道と重複しているため、参勤交代の大名の通行も多かった。
総延長 日本橋から鉢石まで36里3町2間(142km) 21次 3泊4日程度の行程
行程結果
<甲州街道と行程結果>
甲州街道とは
江戸幕府を始めた家康は甲斐の国を支配下に置いた。ここを重視した家康は江戸から甲府に至る甲州道中を開き幕府の管理下に置いた。
ここを重視した理由としては、甲斐の金山を重視したとか、甲府城を拠点化したとかの理由がある。
一般的には江戸城の避難路としての性格ももつと言われる。半蔵門からすぐが甲州道中であり、八王子には千人同心がいたりする。
しかし、ここを参勤交代で使用する藩は3つだけで他の街道に比べ繁盛したとは言えなく、各宿の経営は楽ではなかったようだ。
総延長 日本橋から下諏訪まで53里24町(約208km) 44次 5泊6日程度の行程
行程結果