増毛山道トレッキング
岩尾入口〜別苅入口(16.3km) 27名  13,9、14
「増毛山道の会」によって復元された幕末時代〜昭和初期までの旧道をトレッキング

7:00 集合
7:30 岩尾入口へバス移動
登下山
地 点
 8:00
 9:20
11:20
12:35
13:15
13:55
16:20
岩尾入口
渡渉地点
I36番(本線合流)
武好駅逓跡着
  〃   発
163付近の林道
別苅入口
[8:20]所要時間
17:00 岩尾温泉・夕陽荘(入浴)
19:00 浜益海浜公園(泊)
    
GPSトラックログ
増毛山道とは、江戸末期に急峻な断崖によって交通の難所とされた増毛〜雄冬間を迂回すべく、幕府の命を受け、増毛の漁場を請け負っていた商人「伊達林右衞門」によって、安政4年(1857年)に私費1500両余を投じ開削された山道である。現在の石狩市浜益区幌と増毛町別苅を結ぶ全長約27.8kmに及び、1000mを越える浜益御殿や雄冬岳を越える山道であった。 昭和20年頃まで使われ、最近まで草木に埋もれていたが、平成21年から3年余りをかけて「増毛山道の会」の手によって、笹刈りをし別苅〜岩尾間16kmが復元されている。

  その山道を歩くトレッキングが年に何度か開催されている。今年の5月の残雪期に増毛天狗岳に登った際にこの一部を歩き、標識や電信柱も目にしていた。そんなこともあり、復元された山道を歩いてみたかった。しかし、まだ一般開放されていないので、このトレッキングに参加した。

 下山予定の別苅側の入口に集合し、そこからバスで岩尾側の入口へ移動。そこで、日程や諸注意などの説明をいただいた(1)参加者は23名で、それを案内したり、サポートしたりしてくださるスタッフが7名。説明を聞いた後、8:00に橋を渡ってスタート。そばに、岩尾側の1番を示す「I1番」の標識があった(2)これは、両方から100番まで約160m間隔で設置されているとのこと。岩尾側からの番号にはIが付き、別苅側からの番号にはBが付いている。今年の5月に見たときに、その意味が分からなかったが、ようやく理解できた。
 



 最初の橋が架かっていたところには、復元画が設置されていて、両方の岸に石組みの土台の遺構が残っていた(3)この後、このようなところが何ヶ所かあった。2ヶ所目の橋が架かっていたところは渡渉地点となっていて、ここで最初の休憩となった(4)

 ここで、ガイドリーダーで、いろいろ説明をしてくださった増毛山岳会の板垣さんは、拙サイトを良く見て下さっているとのことでご挨拶をいただいた。また同じスタッフの留萌山岳会の村田さんとは雄冬岳に登ったときに浜益御殿でお会いしているらしい。

 この後、急な登りが続く。雨が降ってきて、慌ててカッパを着たり、脱いだりを繰り返した。530m付近で林道にぶつかる。ここで、調子の悪い2名がサポート車に収容された。さらに、650付近まで登りが続く。



 11:20、出発してから3時間20分、「I36」番の岩尾分岐に到着。ここは、雄冬山を通ってくる本道との合流地点である。そちらへの道はトラロープで閉鎖されていた(5↑)

 そこからまもなく一等水準点の地点に到着。このコース上には5ヶ所の一等水準点があるらしいが、まだ3ヶ所しか見つかっていないらしい。これを見つけるのも非常に苦労したとのこと(6↑)

 そのすぐ先に「旧通行屋」の標識のあるところに到着。ここは、旧駅逓があったところで、地元の人は「ふるつこや」と呼んでいるらしい(7↑)ここは水は豊富だったが、急斜面の下なので、現在の武好駅逓跡へ移転されたとのこと。

 ここまでも、多くの電信柱や碍子が残っていたが、この「I43」番の標識を付けたものががもっとも保存状態が良いそうだ(8,9)この電信柱は、海が荒れると陸の孤島になってしまう浜益や雄冬地域の重要な通信手段として、また、当時ニシンの漁獲量や価格をいち早く札幌へ知らせるために、なくてはならない通信手段だったそうだ。設置当時は、冬になると断線して、安定するまでに数年かかったそうだ。




 最高地点(680m)を越え、12:35、ほぼ中間地点となる武好駅逓跡(標高671m)へ到着。ここで40分の昼食休憩。建物の間取りも復元されていた(10)。さらには、武好駅逓の復元画(11)と、その歴史の説明や写真が掲載された立て看板もあった(12)説明板によると、この駅逓は、北大山岳部がよく利用していたらしい。掲載されていた写真は、大正15年に登山家で画家だった坂本直行氏が撮影したものだったし、もう一枚は駅逓が廃止された後の昭和24年にやはり北大山岳部が撮影したのもだった。


  駅逓跡の敷地には昔のビール瓶や酒瓶などが残っていた(13)13:15、アーチ状のダケカンバの幹を潜って、後半に向けて出発この辺りからは、この5月に雪で覆われた上を歩いたコースである。しかし、そのときは雪で覆われていたので、もっと見通しが良く、電信柱がよく目立っていた。今回は天気が悪く、そのときには見えていた増毛天狗岳も暑寒別岳も雄冬岳も見えないのが残念。しかし、曲がりくねったダケカンバ並木が美しい(14)


やがて、林道にぶつかる。ここは、自分が5月に上がってきた地点である。そこへ車でやってきたスタッフの方からプルーンやプラムの差し入れを頂いた(15)この後は、暫くすると林道と交差したり、民有林のカラマツ林の中の歩きとなったりで、人里が近くなってきた感じがする(16)。右手に増毛市街地も望まれる(17)。


 三等三角点の設置地点(151m)に到着。この点名は「山道」となっているそうで、ここに山道が通っていた名残でもあろう(18)。下に民家が見えるようになった地点に庚申塚があった。裏を見たら明治41年となっていた。明治以降の庚申塚は珍しい(19)
 やがて、ゴールを示す「I100」番の標識が目に入ってくる。車の置いてある別刈側の山道入口到着である(20)8時間20分に渡る「増毛山道トレッキング」が無事終了。

 山中に埋もれていた山道を復元して、このようにトレッキングを計画・実施してくれる「増毛山道の会」のみなさんに、改めて敬意と感謝の意を表したい。

 この後、岩尾温泉で汗と疲れを落として、石狩市浜益区幌在住の黄金山山岳会会長渡辺さんのお宅に寄ってご挨拶。渡辺さんは、今回は所用で参加できなかったが、増毛山道の会のメンバーで、12年前の群別岳に同行いただいた方だ。その後、浜益海浜公園で車中泊。


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