静けさと孤独感
山は哲・・・・しかし?
 1998年までの7年間は、完全に「一人歩きだけの山」であったが、HPを開設した翌年・1999年からはインターネットで知り合った山仲間とのグループ山行も経験するようになった。特に2000年は、「北海道の山ML」の仲間とのグループ登山を多く経験し、その楽しさを体験することが多かったが、その反面、「一人歩き」ならではの素晴らしさが逆に良く分かり、無性に「一人で歩きたい」と思うともままあった。
 その一番は、グループ登山では、他人への気遣いが優先しがちなことや、山の感動をメンバーと共有することが中心となり、自分の世界で、自分のペースでじっくりその感動や感激を味わうことができないような気がする。じっくり自然のすばらしさを媒介とした自己内対話を繰り返し、「山は哲」なんてことも感じてみたい。
 しかし、戦前活躍した登山家の本を読むと、「山は思索の場である」とばかりのまさに哲学者が山に登っているのではないかと思うような重い文章が多い。若い頃から好きで良く読む串田孫一などはまだ相通じるものがあるが、尾崎喜八や田部重吉などはその重い文章の代表格である。
 特に田部重吉の『山と随想』などは、さっぱりページが進まず、眠くなってしまうことさえある。美意識の発動によって行為する人は、登ることによって絶えず向上する自己を体験することができるので、同一の山に行詰まりを感ずることがない。>というあたりは、まだ共感できるものがあるが、<何等かの深刻なる内面性を見い出されない登山、体力以上の何物も見い出されない遊戯的登山は、機械的運動以上の何物をも意味しない。それは極めて浅薄な人生の表面的な滑走に過ぎない。>というフレーズを読んで愕然とした。
 何と私の山はまさにその「遊戯的登山」そのものでしかないようなな気がする。それでも「一人歩き」ゆえに、まだ少しは、自己内対話や畏敬の念を抱いた自然との対話などの機会は多いが、「深刻なる内面性」を見い出すほどでは無い。これらを味わうにはグループ登山では難しい。やはり「一人歩き」の深さを究めなくては・・・・とは思うのだが、ふと、ここで思いついた。それは、自分は登山家ではない、「山歩き愛好家」である。もともと彼等とレベルも違い、本格的な山の技術(岩登り、沢登り、ロープワーク)も持たず体力のみで歩ける山に短小軽薄な「山歩き愛好家」が一人で向っているのである。「山が好きだから山に登る・・・浅薄な人生の表面的な滑走でもいいじゃないか・・・自分なりに充実していたら・・・」と開き直る昨今である。  

静寂との同化   
 一人歩きは何といっても静かである。そして、心地好い孤独感に酔い知れることができる。静けさを味わうことは、単独行ならではの特権である。静けさの中で拾う小さな野鳥のさえずり、谷川のせせらぎの音、木々の葉ずれの音・・・自分の足音や枯れ葉を踏む音が止み、疲れた足を休め、荒れた呼吸がやがて落ち着き、風のそよぎに同化し何も聞こえなくなる。無音の底に自分の体と心が沈んでいく快感・・・。   

快い孤独感、侘しい孤立感
 単独行ゆえに可能な限り「早発ち、早着き」に徹して、抜くことは多いがあまり抜かれることの少ない脚力のお陰でほとんどの山が登頂一番乗りである。大半は「お山の大将、われ一人」の気分で登頂の満足感に浸りながら、広大な静けさと快い孤独感を味わっているが、スタートが遅かったり、たまに別のコースから登ってきていたり、縦走途中の山では先に人がいたりする時がある。その人数が多いと孤独感ではなく孤立感を覚える。孤独感は心地好いが、孤立感は侘しいものである。そんなときは、孤独感を味わうためにわざと外れたところに陣取る。しかし、それもまたいいものである。 
 余りの人の多さに休憩もせずに通過し隣の吉田岳で昼食をとったアポイ岳、せっかく一番乗りで広大な眺めと心地好い静けさを満喫していたところに元気のよいおばちゃんグループが到着しその賑やかさに辟易したペンケヌーシ岳、中高年のおばちゃんグループは、どこでも元気で賑やかであり、山の静けさはどこへやらである。とくに、最近の百名山ブームで、道内の9山は、どこもこの賑やかさに占領されようとしている。
 しかし、早い登頂で一人歩きの究極の楽しみである孤独感を満喫し、下山途中にたくさんの登山者と擦れ違うときには、頂上での喧騒を避けた優越感を味わいながら下るのがいい。   

                           


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