旧磯谷道を歩く<函館市>
<御崎町行き止まり〜ホテル恵風> 単独 12、5,8
<磯谷道が記載されている大正4年の5万分の1の地形図(も〜さんから借用)> |
往路 | 地 点 | 復路 |
10:10
10:35
11:05
11:30
11:50
12:15 |
御崎町行き止まり
お経岩
磯谷峠
水無沢
椴法華コース林道
ホテル恵風 |
13:55
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13:00
12:45
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12:25 |
[2:05] | 所要時間 | [1:30] |
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この磯谷道というのは、函館市と合併前の恵山町磯谷(現函館市御崎町・道々635号線の行き止まり)と椴法華村元村(現函館市元村町)を結んでいたという恵山の東側を通る幕末の頃からの旧山道である。現在は廃道になっている。
以前から、車社会になる前には、恵山町海岸沿いの最終集落(御崎町)から椴法華に抜ける山越えの道は絶対あったはずと思ってはいた。道南の古道・旧道の探査研究をしている
も〜さんが、その道が掲載されている明治29年と
大正4年の5万分の1地形図(1)や江戸時代末期の文献をもとに、昨秋から今冬に掛けて自分の足で何度も探査し、
その結果を整理して詳しくサイトに掲載している。
その記録をもとに、恵山側からその磯谷道を辿り、その旧道の痕跡が続く恵山の椴法華コースの林道まで行って、水無沢まで戻り、ホテル恵風まで下って、往復してきた。もちろん、標識などは一切ない。手がかりはも〜さんの案内図と1〜2m幅の深く掘れた旧道の痕跡だけである。も〜さんの案内図には地形や等高線が入っていないので、ウロウロしたり、行きつ戻りつしたりするところが3ヶ所ほどあった。
旧恵山町の海岸線の道々635号縁(元村恵山線)を行き止まりまで走る。
そこに車を置いて、200mほど戻り、入口となる岩田川の右岸に続く道を登る。最終人家が二本柳さん宅で、その家と物置の間を通って、右側の砂防ダムの沢へと進むようになっている(2↓)。
家と物置の間を覗いていると、後ろから声が掛かる。二本柳さんらしい。事情を話すと、丁寧に進む道を教えてくれる。「その道を行くと送電線へぶつかり、恵山灯台まで行けるよ。その送電線は恵山灯台へ引っ張っているんだ。昔、こっち側に灯台を建てたかったが、水がないので、向こうへ建てたのさ・・・」という歴史的なことまで教えてくれた。
二本柳さんの言うとおりに進むと、砂防ダムの下を横切り、右の急斜面に取り付く。トラロープが張られた杉林の中の道を登る。そこを登り切ると、尾根の上に出て、旧道らしい道が続いていた。
まもなく、送電線にぶつかる。そこがお経岩コースと帰りに下りてくる予定の東側コースの分岐である(3)。そこを左に進んだまでは良かったが、鹿道状の踏み跡を勘違いして、左側の尾根に上がってしまう。お経岩が見当たらないので、分岐まで戻る。落ち着いて周りを見ると、上にお経岩が見えて、そこまでジグを切る道が続いていた。
標高100m付近の岩壁に、「南无阿弥陀佛」と「天保丑年」の文字が刻まれたこのお経岩、堀川乗経が書いた『恵山名号』と言われている。さらに、右側に填められている銅板には、この岩の謂われが彫られている。(4)。この堀川乗経は、箱館に願乗寺川と呼ばれた水路を開削し、箱館の発展に大いに尽力した真宗本願寺派の僧として有名である。
しかし、この文字は昭和35年に彫り直されている。銅板に記されている内容とも〜さんの調査によると、風化して判読しづらくなったのを、いつもこの道を通って行商していた菓子屋問屋飯島治三郎が創業50周年を記念して、私費を投じて、念願を達成したとのこと・・・・。このことからも、ここに旧道が通っていた証でもある。また、今回歩いてみて、この旧道に残る唯一の歴史的遺物でもあった。
そのお経岩の左上に深く掘れた道は続いていた。この辺りは大岩が点在する急斜面で、いかにも険しい山道といった雰囲気を醸し出している。
その道を辿って進むと、c180付近で送電線にぶつかる(5)。旧道はところどころで送電線の管理道と一緒になっているが、左側に深く掘れたその痕跡を見ることができる。後ろを振り向くと、狭い谷間の先に海岸線と津軽海峡が覗く。
しばらくの間、送電線沿いを進むと、やがてかつて磯谷峠と呼ばれていた平坦なこのコース上の最高地点に到着する(6)。地形図の等高線では235mほどなのに、GPSの高度は270mほどを示している。帰りもそうだった。このような尾根の上でのGPSの高度の狂いはほとんどないので、もしかして地形図が間違っているかも?とちょっと気に掛かる・・・。
そこから少し下って行くと、送電線から離れて左側へと進む。左手の樹間に恵山の山肌が見えてくる。少し急な斜面を下ると広い平坦地に出る。そこは道が掘れていなくて判りづらい。その痕跡を探して少しウロウロする。も〜さんの記録を見たら、「木の間の広いところが続いている右斜め前方へ進む」と記されている。そちらへ進んでみたら、再び送電線にぶつかった。その左沿いに道の痕跡が続いていたので安心して進む。
再び送電線と離れて進むと、急な下りとなって水無沢へと下って行く。急斜面にジグを刻んだ道が続く(7)。下りの手前からホテル恵風も見えた。
砂防ダムの続く水無沢へ降り立つと、沢の奥には恵山の荒々しい崖が覗く。名前の通り水流はない(8)。
沢を横切ると、その先は砂防ダム建設道路へと続く。
それを辿ったら、もっと立派な砂利の敷かれた工事道路に出た(9)。
しかし、大正4年の地形図では、その北側にも旧道は続いている。も〜さんがはっきりしないのでその入口しか載せなかったという旧道の痕跡らしいところをさらに奥へと進んでみた。
その先もよく見ると、木の幅が広いところに微かな踏み跡が続く。すぐに、これまでと同じような深く掘れた道の痕跡が現れる(10)。それはホテル恵風からの登山道を横切ってほぼ真北へと続いている。
途中で網乾し場のような広い所にぶつかるが、その縁を辿ると再び旧道らしい痕跡は続いている。笹で覆われているところもあるが、結構深く掘れているのでわかりやすい。
やがて、それは、恵山の椴法華コースへと続く林道にぶつかる。そこは「折谷組作業現場入口」への分岐で、テトラポットが置いてあった。その作業道の方へ進んでみたが、旧道の痕跡は見当たらず、右手眼下に椴法華漁港が覗く。多分、この辺りから、漁港の方へ下っていたのではないかと思われる。
そこから同じ旧道を水無沢沿いの道路まで戻り、工事道路を下ってホテル恵風まで行く。も〜さんの調査によると、この水無沢沿いにも海岸まで旧道があったとのことである。
駐車場から越えてきた尾根を見上げる。旧道は左中央の平らなところを越えてきているはずだ(11)。実は、GPSの予備の電池を持参するのを忘れたので、売店でその電池を買いたかったこともあってホテルへ・・・しかし、売店では扱っていなかったが、フロントの女性が手持ちの電池を分けてくれた。
ホテル恵風のHPのトップページの最下段にリンクされている拙サイトの本人であることを告げて、お礼を述べて復路に就く。
磯谷峠を越えて、も〜さんの案内図に書かれている東側コースへと入る予定だった。しかし、その分岐が、送電線から両方のコースがともに離れていくように書かれているので、その場所を探して下がっていく。お経岩のコースが離れていく地点には分岐がない。どうやらもっと上にあるらしい・・・と峠の方へ戻って登り返した。
東側に目安となる杉林を見つけたので、もう少し登っていくと、ようやく分岐が見つかった(12)。
杉林のそばを抜けると、深く掘れてはっきりとした旧道は続いていた(13)。こちらの方が深く掘れていて、地形的にもお経岩コースよりも歩き込まれているような気がする。
そんな痕跡に引っ張られて下っている内に、お経岩の下で登りのコースに合流するはずなのに、その痕跡は下へ向かっている。どこかに分岐があったのかも知れないが、この掘れている道状のものは旧道ではないのか・・・?戻るのも大儀なので、そのままその痕跡を辿って下っていったら、やがてはっきりしなくなり、登りの岩田川の一本東側の沢の上に出た。杉林の急斜面を適当に下って、踏み跡を辿ってその沢の右側の細い尾根に乗ったら、ロープが設置されている。崖崩れ防止工事の施された法面の上だった。その先には階段が続き、下りていったら家の裏に出た。
あちこちウロウロしたり、行きつ戻りつもしたが、トータルで3時間40分ほどの歴史探検もどきの旧道歩きを楽しむことができた。