ニセコ連峰の東端にある最高峰で、東面と南面には4つの大きなスキー場を擁する全国的に有名な山で、日本三百名山にも選ばれている。山名は、アイヌ語のニセイコアン・ベツ(崖状の沢に向かう・川の意)という川の名前に由来しているらしい。なお、ヌプリはアイヌ語で山の意である。
この頂上には、若い頃から冬にスキー場から何度も頂上に立っているし、子ども達が低学年のころに下でキャンプして家族でも登っている。登山を始めるようになってからは、夏は五色温泉コースから1回、鏡沼新コースから1回、冬に北壁を滑り降りるために2回登っている。この五色温泉コースを登るのは、実に14年ぶりである。そのときも、ガスで展望はなかったが、今回も昨日からその姿を見せずにガス中登山を覚悟していた。
しかし、出発時にはきれいにその姿を見せてくれた(1)。
宿泊した新装して10年という快適なニセコ五色温泉旅館を出て(2)、登山口となっている道路を挟んで向かい側のキャンプ場の駐車場から出発する。すでに標高が750m地点である。小さなダケカンバ林の広い道を10分ほど進むと、右手のモイワ山からの道が合流する。あとはしばらくネマガリダケ(チシマザサ)の道が続く。この辺りから、期待に反して、ガスが覆い始め、南から強風も吹き付けるようになる。
952コブには慰霊碑があり、大きなケルンが積まれている。
標高1000mを越すと周りはハイマツが出現し、道はゴロゴロした石を伝い歩くようになる(3)。展望が利いたら爽快な歩きを楽しめるところだが、残念ながら足元のエゾシオガマ、ゴゼンタチバナ、アカモノ、ノウゴウイチゴなどの花だけが楽しみな登りである。
1100m付近からは大きなジグを切る道となるが、展望が利くはずの尾根に出ると強風が吹き付ける。エゾシオガマ、マルバシモツケ、ハイオドギリ、コケモモなどの花を楽しみながら登っていくと、斜度が緩み、
一面エゾカンゾウに覆われた尾根に出る(4)。頂上は近いはずだ。
やがて、鉄製の長いパイプの上に矢印が突いた冬用の標識が現れ、1時間半弱で、広い裸地となった強風の吹き抜ける頂上に到着。
慌てて記念写真を撮り(5)、避難小屋に飛び込む。ここから見る羊蹄山は裾野を長く引いた一番美しい姿の@はずである。西側にはニセコ連峰が峰々を連ね、日本海や積丹半島の山々も見えるはずなのだが、そんな説明も空しいだけの天候である。出発前に登る山の形が見えただけでも少しはマシか・・・?ここでもプラス思考!
避難小屋で20分ほど休憩し、登ったから仕方なく下りるだけの下山開始(6)。足元に気を付けながら岩のゴロゴロした道を下っていくと、中間地点付近で足をくじいた年配の男性と連れの女性がいる。どうやら、捻挫らしいが、私たちでは励ましの言葉と湿布を提供することくらいしかできない。最悪の場合は携帯電話が通じるのでなんとかなるであろうが、自力で下りてくれることを願って先に下る。
ちょうど1時間でゴール。そこへ、登山道を駆け下りてきた自衛隊冬戦教の女子クロスカントリーチームの男性コーチが、その男性を背負って下りてきた。さすが鍛え抜かれたエリート軍団のコーチである。何も力になれなかったこちらまでがうれしくなり、お礼を言ってしまう。
○神仙沼へ
下山後、高層湿原の神仙沼を目指す。この名前の由来は、案内板に次のように記されている。
≪昭和3年10月7日 日本ボーイスカウトの生みの親である下田豊松氏一行が、ニセコ山系に青少年の心身静養訓練道場の候補地を求め、その踏査中に発見されたものです。独特の青色した湖面には、湿原性のアカエゾ松が逆さに写り、岸辺には名も知らぬ水草が繁り、まさに別世界に来たような景観とそのあまりにも神秘的な雰因気にのまれ、「皆が神、仙人のすみ給うたまう所」との印象を受けたことから、下田氏により神仙沼と命名されたものであります。≫
木道を1kmほど歩くと、広い湿原に出る(7)。湿原には、
トキソウ(8)、ワタスゲ、エゾカンゾウ、ヒオウギアヤメ、綿毛になているチングルマ、ネムロコウホネなどが咲いている。
一番の奥の神仙沼で記念写真を撮り(9)、一周して戻る。
駐車場へ戻り、これから十勝岳温泉に向かう徳島組と別れる。私と東京・大阪組の4人は、湯本温泉の雪秩父で最後の汗を流して、倶知安駅へ向かう。そこから列車で千歳空港へ向かう3人と別れて、帰路に就く。それにしても、せっかく本州や四国から遠征してくれたのにもかかわらず、3日連続ガスに悩まされ、どの山のその全貌や展望に恵まれないまま終わったことが心残りである。